↑こちらの壁紙を使わせて頂きました)
INPチュチュ
(↑こちらのプロダクションさまのポットキャストにて
所属タレントさんによる「ホットミルク」の
ボイスミニドラマが楽しめます)


ホットミルク

 ざわざわ。
 ジリリリーン。
 人の声、電話の音、色々な音で騒がしい室内。
 ここはあたしの働く小さな出版社の一室。
 あたしは朝から機嫌が悪かった。

「ちょっと、神山!これ何よ!まったくだめ!誤字・脱字も多い!やり直し!」
 あたしは大声を上げ、思いきっきり自分の机の端を叩く。
 それを見たあたしの部下の男性・神山が必死な顔でこう言った。
「は、はい!すぐやり直します」
 神山はう言うと原稿を持ち、そそくさとあたしから離れていく。
「たくっ!」
 あたしはまた大声で言った。

 そんなあたしを見ていた後輩たちがあたしに聞こえないような声でこっそり陰口を言っていた。
「またよ、美弥先輩のヒス」
「今日は特にヒドイね。やっぱり綾子先輩が昇進したんであせってんじゃないの?」
「そうかもね。あ、それと彼氏ともうまくいってないらしいよ」
「ほんとっ!?だから今日の雷ひどいんだー。こわっー!」
 …実はあたしは言われてるのを知っている。
 でももうなれてしまった。言われるのはいやだけど…でもなれざる負えなかった。

 あたしはこの出版社に田舎から上京して大学を出た後、苦労して入社した。
 現在、三十路目前で頑張って一応若手をまとめる立場までにはなった。
 でも同期の綾子には先を越されて月刊誌の編集長になられてしまい、彼氏には別れ話まで持ち出される始末。
 そんなあたしは…昔で言うと負け犬、今で言うと負け組ってやつだ。
 …あー、どっちも負けじゃん!
 やだやだ!負けたくない!!負けたくはない!
 綾子にも誰かにも世界にもっ!!!

 毎日毎日負けたくないという思いが息が止まりそうなぐらいの緊張感を与え、あたし自身を苦しめている。
 分かってるの。このままだと壊れてしまうことが。
 でも…この思いを止められない。これがなくなったらあたしが消えてしまいそうで恐い。恐いの。
 壊れるか消えるか…。限界に来ていたあたし。
 ……そんな日の帰り道、一人の男性が声をかけてきた


「何か寒そうですね。あったまっていきませんか?」
「え?」
 あたしは答えられなかった。変なことを言う人だと思ったから。
 だって今は春。それも終わりかけで暑くなりかけているのに。なのに寒そうだなんて…。
「私、喫茶店やってるんです。ほら、そこ」
 男性が指差した先を見ると確かに喫茶店があった。
 …あれ、こんなところにあったかしら?そんな疑問が浮かんだあたしは男性に手を引っ張られていた。
「あ、ちょ、ちょっと!」

 カランカラン。
 扉についた鐘の澄んだ音色があたしを迎えてくれた。
 あたしは男性に引っ張られて、中に入るとカウンターの席に座らされる。
「待ってて下さいね。今温かくなるの入れますから」
 男性はさっさと奥のキッチンへ入っていった。
 ぽつんと残されたあたしは店を見渡す。そこはほんとに小さかった。
 座席と言えばちゃんとしたセットは二つほどで後はカウンター席が五つだけ。
 キッチンもカウンターから丸見えでそこも2畳あるかないかの広さだった。

「どうぞ。あったくなりますよ」
 気がつくと男性が目の前にいてカップを差し出した。
 コーヒーカップに入っていたのは白いもの。……これって、もしかして!?
「ホットミルクです。はちみつ、入れさせてもらいましたよ。レンゲのはちみつがお好きでしたよね?」
「え、何でそれを…」
 あたしの脳裏にある記憶が蘇ってきた。
 ………昔からあたしは負けず嫌い。いつも何かと戦っていた。
 毎日何かに負け悔しくて泣いて帰ると母が一言言って出してくれたのがこのホットミルクだった。
「あなたはあなたであるだけですごいんですよ。誰かに勝っただの負けだのだなんて必要ないんです」
「なんでその言葉まで…」
「冷めますからどうぞ」
「え、えぇ」
 言われるがままカップを口に運ぶ。
 優しいミルクとレンゲのはちみつの香り。なつかしい味だった。
「…おいしい」
「良かった。あったまったみたいですね」
 男性は優しく微笑む。
 私はまたカップを口に運び、懐かしい味を楽しんだ。不思議と心が安らぐ。
 …何で毎日壊れそうになるぐらい戦おうとしていたんだろう。
 あたしはあたし。
 あたしらしく生きれば良かったのに何で忘れていたんだろう。

 チャラララーン♪
 携帯がなった。あたしはカップを置き、鞄から携帯を取り出す。…母からだった。
「あ、ごめんなさい。母からみたい」
「どうぞ、お気になさらず出てください」
「すみません。……あ、母さん?久しぶり。ごめん。ここのところばたついてて。
 ………うん、そうね。次の連休には帰ろうかな。長いこと帰ってないもんね。…あ、そうだ、今ね、
ホットミルク飲んでるの。懐かしいあの味の…えっ!?」
 あたしは言葉を失った。
 店が消えていたのだ。
 小さな小さなあの店も、優しげな笑顔を浮かべた男性もすべて消えていたのだ。
 …あたしは空き地の真ん中につっ立っていた。
「…あ、ご、ごめん。今出先だから後でかけ直していい?……うん、じゃあ」
 あたしは携帯をしまい、空き地を見回す。空き地はやっぱり空き地だった。
 あの店は…あの人は幻っ!?
「…あ」
 口の中にミルクとはちみつの味をかすかに感じた。
 ………幻じゃない。不思議な出来事だけどあたしは確かにホットミルクをここで飲んだんだ。
「…あたしはあたし。あたしでいるだけですごいんだ」
 あたしは呟くようにそう言うと鞄を持ってそこを出た。
 …あったかくなった心と一緒に。